保険・金融・デジタルテクノロジー

途上国における保険普及の取組 ~ノーベル賞で注目の「ナッジ」を活用~

主任研究員 林 勝己

途上国において保険を普及させるためには、低廉な保険料水準だけでなく、保険に接した経験の乏しさに対応する商品性や働きかけが必要となる。本稿では、2017年にノーベル経済学賞を受賞し、注目を集めている「ナッジ」を活用した取組を紹介する。「ナッジ」は、途上国の市場拡大の有効な一手となるか。

1.途上国の状況

途上国では、低い所得水準や収入の不安定さなどの経済的な事由に加えて、農村部など物理的なアクセスが悪い地域に居住していることが保険の普及の妨げとなってきた。また、教育水準が低いことや保険に接した経験の乏しさが、保険やその必要性に対する理解の妨げとなっている。このような壁に対し、近年では金融リテラシーの向上をはかる教育や、低い保険料水準でわかりやすい保険を提供するなど金融包摂に関わる様々な取組が進められてきた。また、モバイルテクノロジーの発展と普及により、保険を含む金融サービスへのアクセスも飛躍的に向上している。しかしながら、現状では、途上国でなんらかの保険に加入している人は2割に満たず、保険の普及はまだ途上にある1,2

2.リテラシー向上だけでは後押しとならない

保険に関するリテラシーとは、リスクと保険の有効性を理解し、潜在的なリスクに対して適切な行動をとる能力をいう3。金融包摂の取組においては、リテラシーを向上させることが普及の後押しになると期待されてきた。しかし、近年ではハーバード大学のColeらの研究から、リスクに対する認識や保険の知識が向上しても、それだけでは保険に加入する行動には結びつかないことがわかってきた4

知識や理解の向上が必ずしも加入行動に結びつかない理由として、人は必ずしも合理的な行動をとるものではないという認知バイアスがある。行動を妨げる認知バイアスには、①損失回避、②楽観主義、③現状維持バイアス、④現在バイアスなどがある5

(1)損失回避

損失回避は、利得の額と損失の額が同程度である場合に損失の方を嫌う特性である。保険においては、保険料支払が損失とみなされ、回避される。

(2)楽観主義

楽観主義は、自分自身が事故に遭遇したり病気にかかったりする危険性を過小評価し、心理的負荷を軽減しようとする特性である。

(3)現状維持バイアス

現状維持バイアスは、現状を変更したほうが望ましい場合でも、変更による心理的負担を損失として捉え、現状を維持する特性である。保険に加入したほうが良い場合でも、未加入(現状)が維持される。

(4)現在バイアス

現在バイアスは、ダイエットを計画しても実行することが難しいように、将来の利得(健康)よりも現在の利得(食欲)を優先してしまう特性である。保険においては将来の備えの重要性を理解したとしても、我慢できず他の消費に充ててしまい、保険の加入は先延ばしとなる。

保険は、途上国ではまだなじみが浅く、所得水準の低さやリスク・保険の補償の不確実性とあいまって、認知バイアスの影響を強く受ける6,7

3.ナッジの活用

前述のとおり途上国における保険の普及にはまだ壁がある。そのような中でナッジといわれる手法が普及を後押しするものとして注目されている8

ナッジ(Nudge)とは、「軽く肘でつつく」という意味の英語を示し、認知バイアスによって影響された意思決定の歪みを行動経済学の特性を利用して正しい行動へ導くことを意味する。ノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーらが執筆した「実践行動経済学」9の中で提唱された。ナッジの活用事例としては、デフォルト効果10を利用したジェリック医薬品への切替え11などがある。

以下に、ナッジを活用して保険の普及を進める取組事例を紹介する。

(1)Pulaの取組

サブサハラ地域でインデックス型の天候保険を販売するPulaは、肥料等の農家向け商材に保険を付帯し、農家間のネットワークも利用して販売を拡大している12(≪図表1≫参照)。

天候保険の保険料は、農家向けの商材を製造・販売する会社が負担し、農家は、モバイル端末で商材にあるQRコードを読み取るだけでPulaの保険に加入できる。天候保険は農家になじみがなかったが、肥料や種子といった農家に必要な商材に付帯することにより、保険に加入することが習慣化しつつある(デフォルト効果)。農家の天候リスクに対する耐性が高まり、収入の安定性や事業の持続性が高まったことで、商材を製造・販売する会社の事業も拡大している。

さらに、Pulaでは農家の紹介ネットワークを利用し、保険の加入率を高めている13。農家が商材に付帯される保険に加入すると、商材の割引券付きのショートメッセージを他の農家に送付することできる。農家同士の同調効果14が働き、割引される商材の購入とそれに付帯される保険の加入へと広がっている。割引される商材を購入した90%余りの農家が保険に加入している。Pulaは、現在61万の農家に天候保険を販売しており、2018年から始めたこの紹介プログラムにより2019年度は約40%の保険料増加を見込んでいる。

(2)Triggeriseの取組

Triggeriseは、インドの低所得者層の女性を対象として、健康に関するアドバイスや病院や薬局と利用者を媒介する事業者である。同社は保険会社と提携し、妊婦を対象に出産までの間に生じた病気にかかる医療費用(外来診察費用)を補償する保険を提供している15。この保険では、妊婦検診の受診など健康の維持・改善に寄与する行動をとることで、子供用のオムツや粉ミルクなどの購入ができるポイント(報酬)が提供される。健康の管理は、日々の行動がただちに成果と結びつくものでなく(長期的な目標)、規則正しい生活をしても成果につながるとは限らないため(不確実性)、重要と認識していても先延ばしされがちである。Triggeriseは、健康を維持する行動とその成果に対する報酬を結びつけ、行動が達成できないと報酬が減る仕組みとすることで、健康管理の継続を促している(≪図表2≫参照)。

インドでは妊婦検診の受診率は56%16にとどまり低所得者層や若年層ではさらに低いが、Triggeriseの保険加入者では89%と高い受診率を実現している17

4.おわりに

途上国ではモバイルテクノロジーの発達により保険へのアクセスが向上し、さらにナッジを活用した保険の加入促進や健康管理など経済の安定化・発展を後押しする取組が進んできている。保険の普及はまだ途上であるが市場の潜在規模・成長性は高く、地域社会の特性に応じた創意工夫やイノベーションによるさらなる発展が期待される。

  • IIF, “Inclusive Insurance: Closing the Protection Gap for Emerging Customers”, Jan, 2018.
  • Swiss Re, “World insurance:the great pivot east continues”, Jul 4, 2019.
  • A2ii, “Seminar on Financial Education:Challenges, Trends and Measures of Success in Supporting Financial Inclusion in Sub-Saharan Africa”, Sep, 2016.
  • American Economic Journal, “Barriers to Household Risk Management:Evidence from India”, 2013.調査では、天候保険の仕組や支払などの介入(教育)を受けたグループと非介入グループに分けられ、介入後に保険の購入が変化するかが調べられた。
  • Geneva Association, “Understanding and Addressing Global Insurance Protection Gaps”, Apr 9, 2018.
  • World Bank, “The ABCs of Financial Education Experimental Evidence on Attitudes, Behavior, and Cognitive Biases”, Sep, 2015.
  • The Geneva papers on risk and insurance, “Overcoming Barriers to Microinsurance adoption:Evidence from the Field”, 2015.
  • 前脚注 6
  • リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン「実践行動経済学」日経BP社(2009年7月)
  • デフォルト効果とは、最初に設定されている状態に選択が左右されてしまう特性のことである。望ましい(取ってほしい)選択を予め設定しておくことで、望ましくない選択を減らすように利用がされている。
  • ジェネリック医薬品への切替えが推進される以前の処方箋は、先発医薬品を利用することが記載された書式であった。厚生労働省はジェネリック医薬品への切替えを推進するため、2008年に処方箋の書式をジェネリック医薬品の利用があらかじめ記載され、先発医薬品を利用する場合に医師が署名するよう変更した。ジェネリック医薬品の利用があらかじめ設定され、誘導されることでジェリック医薬品の利用率は2005年の32.5%から2018年には72.6%に向上した。
  • MercyCorps, “Marketing Agriculture Micro-Insurance through Rural Social Networks”, May 22, 2019
  • 前脚注 12
  • 同調効果とは、周囲の人の行動に合わせて同じ行動をする特性である。周囲の人が保険加入していると加入しないことは損と考え、加入が促される。
  • Impact Insurance, “ Financial inclusion and health: How the financial services industry is responding to health risks”, Jul, 2018.
  • Ministry of Health and Family Welfare, Government of India, “National Family Health Survey 2015-2016”)
  • Triggerise, “ANNUAL REPORT 2017”

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